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2013/08/06 【東京】68年前の8月6日の3日後、広島の街に辿り着くと、まさに『べっしゃんこ』だった 〜「100年後の8月6日で伝える1時間、今から作る。」 奥田豊治氏講話

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130806_100年後の8月6日で伝える1時間、今から作る。

特集 戦争の代償と歴史認

 現在83歳で、東京都江戸川区原爆被害者の会(親江会)の会長を務める奥田豊治さんによる広島原爆と被爆体験について語られた。

 68年前、当時15歳だった奥田さんは、山口県の中学校に通い、中学4年生だった(※当時中学5年制度)。農村の働き手のほとんどが兵隊に行き、中学生だった奥田さんは農作業の手伝いに行き、中学3年になると、下関の工場で働きに行き、結局、学校に通ったのは僅か1年程度だったという。

 中学3年生の終わり頃に、陸軍学校の受験をし、一次試験を通ることになった。その後、『憲兵』という軍隊の警察が家に付き、身元調査がおこなわれることになる。家族、両親だけに留まらず、親戚もその対象となり、主に、思想関係をずっと調査されたという。その憲兵から広島原爆投下の8月6日の日に、「新型爆弾が投下された」と知らされ、下関から広島に行くことになった。奥田さんは、広島原爆が投下された3日後に何とか列車に乗り継ぎ、広島の街に辿り着いた。広島に着くと、街はまさに「べっしゃんこ」だったという。

 憲兵から下関で、早く行けと言われ広島に向かい、広島に着き、街で遭遇した軍隊から何もないと言われた時には、力が一気に抜けその場に座り込んでしまったと当時の様子を語った。広島の街を彷徨い喉が渇き、水道の蛇口を見つけ、水をゴクコクと飲み、ボーッとしていると、原爆ドーム前まで辿り着き、爆心地近くまで来ていることに気づいたと語った。

 戦争の話や広島・長崎の原爆の話を中々しない人もいて、中には、崩れた建物の下敷きになった母親を置いて逃げてきたということが、トラウマになってしまい体験談を語れずにいる人もいると明かした。

■お話 奥田豊治氏(東京都江戸川区原爆被害者の会(江戸川親江会)会長)
■主催 8.6 One Night 東京(城間健市郎氏)
■詳細 https://www.facebook.com/events/193455614148717/

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